週末の物語 「ある夜、寄り道」
その夜、前山さんは残業をして会社を出て、帰宅する人たちで混み合う電車に揺られながら帰ってきました。
駅の改札を抜けて、重い足どりで家までの道を歩いていると、携帯電話がぶるぶると震えました。
画面を確認すると、職場の同僚からの電話でした。
電話に出て同僚の問い合わせに答え、その場にしゃがみこんで電話の内容をスケジュール帳に書きこみました。
電話が終わっても、前山さんはしばらくそこにしゃがみこんだまま動けませんでした。
仕事仕事仕事。
いつでもどこでも仕事が追いかけてくるようです。
なんだか、とても疲れてしまったのです。
長いため息をついて立ち上がろうとしたその時、前山さんの目に、あるものが目に留まりました。
「ねこきつさ」と書かれた小さな小さな看板が、地面すれすれのところに立てかけてあったのです。
時間は深夜。
でも、看板には「ねこがおきているじかん」とあります。
夜行性の猫ならまだ起きているかもしれない。
もしお店がまだ開いているのなら、気分転換に猫を愛でながらコーヒーでも飲んで帰ろうと前山さんは思いました。
そこで、看板の矢印に沿って、建物と建物の間の僅かな隙間を体を斜めにしながら進んでいきました。
ところどころに示された矢印に従って、右に曲がり、左に曲がり、斜めに進み、後ろに戻り…。路地裏をうろうろして、ようやくある扉の前にたどり着きました。
扉を開けて中に入ると、そこは小さな小さな喫茶店でした。
「ねこきつさ」という名前からして、きっと猫好きの人が経営しているんだろうなあ、と前山さんは思いました。
しかし、店員の姿が見当たりません。
しばらく入口に立ちすくんでいると、奥からバタバタと音がして店員が出てきました。
店員は、猫でした。
猫がいる「猫カフェ」ではなく、猫が働いている「ねこきつさ」だったのです。
猫舌の猫が淹れるだけあってコーヒーは冷めていてぬるかったのですが、せっせと働く猫たちを見ているうちに、前山さんは温かい気持ちになりました。
前山さんは、この「ねこきつさ」の常連となったそうです。
おしまい。